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モノを作れない世代

16 4月

気持ちを共有できないからこそ、何かを表現しようとした過去の世代から、今、大きな変革が訪れている。ネット革新が起き、それまでの「個」が閉じ無くなっているのだ。

例えば、幸せだったり、苦しかったりすると、その気持はいったん個人の心に格納され、じんわりと作品へ昇華される時間があった。しかし、現在は、なにか美味しい物を食べたり、不幸な出来事があると、心に格納される前に、発散行動を迎える。「美味しい」「嬉しい」「くやしい」「かなしい」全ての感情が、すぐに伝達しようと発散される。

映画を含め、芸術活動は、一般的には「ネクラ的」だったと言い換えられると思う。心の奥深いところでの思索を通しての、個人の心の有り様が、大きく関わっていたからだ。しかし、もしかしたら、今後の創作は、感情を共有したいとか、一緒に作ろうよ!的なグループ意思が基礎になるようになるかもしれない。

モノ作りの意識や行動の母体が変容するとしたら、今後、どうなっていくのだろうか?

レディ・ガガの面白いエピソードがある。創作をする為に、セックスやドラッグなどの発散行動を禁じているというのだ。確かに、セックスから得られる快楽よりも、創作から得られる快楽のほうが大きいという研究文献もある。そう考えると、いくら高尚な創作活動といっても、ただの快楽中毒なのかもしれない。そんなガガ様は、ツイッターフォロー数が世界一だというのは、皮肉なことだ。創作への発散行動をうまくコントロールしていると言える。私たちは、うまく発散や、欲望、快楽をコントロールできているだろうか?

簡単にツィートして、創作に昇華すべき感情をドブに捨てていないだろうか?

再考すると、映画製作などのもともとグループ制作だったものは、ネット革新で便利な時代になった。すぐに、一緒につくろうという仲間を集められるようになったからだ。宣伝や、作品発表の機会も増えた。楽しい仲間の時代なのだろう。しかし、不思議なのは、いまだに自殺者が減らない。美大生は、よく死ぬ。閉じた「個」と、なれあいのネットの場とのせめぎ合いが、まだ発展途上なのだからか?共有できない「個」の部分があるからなのだろうか?その死にもつながる閉じた部分こそ、自分は好きな部分かもしれない。

結局のところ、どんな環境でも、作る人は作るし、死ぬ人は死ぬ。

仲間がほしいとみんなで作った作品、自殺しながら苦しんで作った作家性のある作品、いろんな背景の作品が残されていく。軽薄な作品を評価する人も多いし、人気のでない作品を「孤高の芸術」と自負しながら老いて死ぬことも多い。職業監督になって、見事な演出ですねと言われ死んでいくのか?苦しんでたった1本の映画を作るのか?

そんな世の中で、何を大切に作るのか?

 
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投稿者: : 2012年4月16日 投稿先 雑談

 

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