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カメラワーク考察

09 5月

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品を初めて観たのは、「21g」だった。自作「SPICA」で求める演技について、主演の鈴木薫を劇場に連れていった。ナオミ・ワッツの演技を見せる為だったが、自分は、イニャリトゥ監督の思想性に強く惹かれた。「バベル」も好きだが、やはり一番は「BIUTIFUL」だと思う。国内では、ブルーレイ化されてないのが、すごく不満だけど。

手持ち撮影の印象が強いので、演出はしてなくて、その場での役者の行動を記録してる感じなのかなと思っていたら、かなり細かく演出しているみたいで、役者にかかる負担はすごく大きそうだった。何度も繰り返し、演出し、演技し、カメラワークを修正するんだろう。編集段階で、すべての映像素材をさらに吟味しつなげていく。

自分は、「眠る右手を」ではカメラを尊重した。役者をミリ単位で固定し、動きを制限した。草野康太からは不満が漏れた。自分自身が役者や人間を信じていなかったからで、話も寓話的すぎた。役者に自由に演技させるのは、「SPICA」の時のエチュードを目撃した時からだ。現場で起きる奇跡的な瞬間を見てしまうと、それをなんとか記録したいと思う。しかし、奇跡はなんども起きなかったと思う。ただ、役者を信じる心を持てるようになった。自分の中に、愛を見つけた。冷たい心しかなかった自分だったのに、映画を作ることで、ようやく人間になれたと思う。

今回の「教室」は、リアリティと寓話性の融合した話で、カメラワークは、どちらの意味も持たなければならない。手持ちカメラの醸しだすリアルな空気感だけではダメなのだ。時として、オペラシーンも介入するし、神話性を持つシーンもある。非常に難しい演出の舵取りをしなければならない。

そんな時に、やはり「BIUTIFUL」演出は参考になる。死者の魂を見るシーンや、思想の神話性はとても魅力的だ。ただ、「教室」は更に寓話性を強く打ち出す、どちらかというと舞台的なシーンもある。やっぱり難しいなと思う。映画なのに、たまに舞台だなんて、ミュージカル的で興ざめさせかねない。しかし、映画でなければならない。映像でしか表現できない、映画でしか表現できない、白川幸司でしか表現できない領域があるはずである。

絵コンテを描かねば。ロケハンして、更に絵コンテを詰めていく。まあ、既に脚本を書いてる時点で、かなりの映像化は終えているが、もっと熟考しなければ。

熟考といえば、もう手直しは要らないかなと思っていた「教室」脚本も少し修正して、また良くなった。なんだか、最初から「そうなる」んでしょ?みたいな感じで変更する。自分ではなく、映画の神様に筆を動かされている感覚。毎日、真摯に脚本に打ち込んでいると味わうことの出来る不思議な感覚がきているのだ。この高揚感が欲しかった。苦しんで書いている先にあるこの絶頂感。やっぱモノ作り中毒だね。

 
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投稿者: : 2012年5月9日 投稿先 進行

 

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