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役者の演技、その演出について

10 10月

よく「役者の演技を何故そぎ落とすのか?」が話題になることがある。監督が、役者と対峙するときに出て来る言葉である。

私なりに考えると、それは、その演技の解釈が少なすぎるからだ。監督たちは、逆を言ったり、疲れさせたり、即興をしたり、いろんな方法で、役者の演技をそぎ落とす。笑いに悲しみを、悲しみに怒りを、人間の感情は、多くの解釈があるはずなのだ。しかし、映像演技に慣れていない役者は、笑うシーンでは確実に笑うし、泣くシーンでは確実に泣こうとする。クローズアップされる役者の顔。その寸分の動きさえも、観客は凝視し、解釈しようとする。それに耐えうる演技とはどんなものなのか?

良い役者は、すでにその事を理解している。多くの感情を知っている。哲学を学び、心理学を探求し、レイヤー構造の感情を考える。一元的ではない感情について思索し、現場で捨てる。(これは監督にも言えること。予め想定した演出を捨てる技量が必要。)

映画のメイキングを見ると面白い役者の話が聞ける。「ドラゴンタゥーの女」では10パターンの演技を用意して現場に入るのは、用意してない11個目の演技を引き出したいからだと役者自身が語る。(素晴らしい考え方だと思う。)

「青の愛」のメイキングでは、監督の演出を、役者自身が拡大させている。最後の瞬間に泣きながら微笑むかどうかの話は必見だ。監督は微笑させたくなく、ビノシュは微笑んだ。結局、編集では微笑む方を採用したくだり。(ビノシュは心理学的な感情の反動を体現させる方法論を持っているということ。)

そういう役者との対決を私はしたい。映画は監督一人のものではない。役者や美術、衣装、音楽、すべての人々の想いが、多元的に絡み合い、でも最後はひとつのラストにたどり着くのだ。まるで、最初から、そうなる運命かのように。

現在、脚本を書き直している。主要な登場人物を丸ごと殺す。人生を奪うのである。最初から居なかったかのように、周りの登場人物も振舞う。なんと恐ろしい。死そのものである。脚本を書いている時に、まるで神様のように人間を操作する。しかし、ふと気づく。もしかしたら、私こそが、彼らに観察され操られているのではないかと錯覚さえする。彼らを盗聴し、船を転覆させるキェシロフスキ監督のように。

私の現場はどんな現場になるのだろうか?役者と映画の解釈について語り、お互いの生き方をさらけ出したい。

 
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投稿者: : 2012年10月10日 投稿先 役者

 

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