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短編「シャルロッテ姫」

07 1月

syaru

「変な空だな。」

流れる雲が異常に早いのを、和男は眉間に皺を寄せながら呟く。少し不機嫌な時の皺は、ここ十数年の間に深さを増していき、40代前半の和男の顔をすっかり年老いて見せていた。3時からのミーティングが不調に終わり、和男はビル2階のスタバに避難していた。最近、よく避難するようになった。若い頃は、仕事中にお茶するなんてと思っていたが、管理職になると、避難することも大事なのだと思うようになった。最近入った新しいバイトの女の子にコーヒーを注文し、赤いランプの下で受け取り、窓際のカウンターに腰掛ける。窓の下には、デパート帰りの主婦達が、買い物袋を下げながら、道を魚のように流れていく。漠然と幸子の事を思い出す。大学生の頃に出会った幸子は、「これはプラステックの真珠なのよ。」と偽物の真珠が目を引く女の子だった。決して美人ではないが、真珠のよく似合う和風の顔立ちで、和男は、いつか本物の真珠を買ってやろうと思った。やがて結婚し、初めての子供が産まれた時に、すやすや眠る幸子の枕元に、本物の真珠の首飾りを置いたりもした。和男は窓にうっすらと映る自分自身の姿を確認し、溜息をつく。幸子との恋愛は終わってしまった。同じ屋根の下で暮らしているのに、会話も少なくなったし、真珠の首飾りも箪笥の奥に仕舞われたままになっている。3人の子供たちは、どこかよそよそしい気がする。親と子どもの関係ってこういうものなのかと、かすかな失望もしていた。突然、窓に映る自分が泣いているように錯覚した。それは窓に水滴がついて流れていたのだ。だんだんと景色がどんよりし、カウンターの木の色が変わっていく。ふと窓とカウンターの隙間に沢山のホコリが詰まっているのに気がつく。きっとあの新人バイトのせいだと悟る。客商売というのは、センスだと思った。こういう事に気がつくのかどうかを、他人に言われないとダメだなんて。窓にはどんどん水滴がついて、塊になると、流れていく。「変な空だな。」

ホコリの中に、黄色っぽい何かが混じっていた。それは何かの眼のようにも見える。よく見ると、小さな蛾の死骸だった。ビルの2階のスタバに、よく迷いこんできたものだと思った。あの赤いランプに誘われたのか?蛾の羽には眼のような模様がある。鳥から身を守るために、擬態をしているのだと何かで読んだことがあった。雨の音が強くなっていく。和男は、はるか昔の忘れていた場面を思い出した。あまりに急だったので、少し驚く。

和男がまだ小学2年生の時、窓辺に置いてある薔薇の鉢植えに、蝶蝶のサナギを母親が見つけた。母親は、なんて素敵なことでしょうと、和男と共に、サナギが割れるのを待ちわびた。和男は、子供の頃は、体が弱く、いつも家の中で遊んでいた。和男にとって、母親は、遊び相手でも有り、教師でもあった。そんな母親が、まるで乙女のような顔をするので、和男は少し興奮していた。母親はヲンナなのだと気がついたのだ。やがて、サナギは割れる。綺麗なしっとり濡れた体が現れると、母親と和男は恍惚となった。その3時間後、母親は冷たい表情になり「なんだ、蛾じゃないの。損した。」と立ち去ってしまった。和男は、自分に言われた気がして戸惑う。残された和男は、蛾を見続けていると、みるみるうちに、フワッとした毛で覆われていく大きな体の昆虫に目を奪われた。扇型の羽が広がっていき、そこには和男を見つめる眼が開かれた。見つめ合っているかの様な気がしたが、和男は目を離さない。羽は黄金色で美しかった。鱗粉は、様々な色彩の虹色を輝かせる。母親が台所から、そんな蛾は早く捨ててしまいなさいと言っている。和男は、まだ飛べぬ蛾を、手に留まらせる。小さな6本足で指を掴まれた和男は、その感触が気持ちよかった。裏の自転車小屋まで蛾を連れて行くと、自転車のハンドルに蛾を留まらせる。ハンドルを伝っていく姫は、羽をバタバタさせ、虹色の鱗粉を振りまいている。「君の名前はシャルロッテ姫だよ。とっても偉いお姫様なんだよ。明日、また会いに来るからね。」自転車小屋の鍵を掛け、和男は戻っていった。

翌朝、和男はシャルロッテ姫に会いに行くと、姫の姿はどこにもなかった。鍵は掛かったままだったのに。その日の午後、大雨になった。和男は、姫がどこかで濡れて立ち往生しているのではないかと心配した。

すっかり、あんな蛾のことなど、忘れていたのに。和男は、急に子供の頃に戻った感覚に驚く。もう母は亡くなってるし、何度も引越しをしたのに、あの自転車小屋の事も、細かく思い出していた。

「シャルロッテ姫、あなたは何処に行かれたのですか?」

そろそろ会社に戻らないと。ミーティングの続きをして、軌道に戻さなければ。早起きして、妻の枕元に、偽物の可愛い真珠の首飾りを置いてみよう。和男は立ち上がり、コーヒーカップを戻し、新人のバイトに昆虫の死骸のことを教え、エレベーターへ。

「本当に変な空だな。」

いつしか雨はやみ、誰も気が付かない虹が掛かっていた。

追記:年末に、友人の庭先でサナギを破った蛾の話を聴いて、なんだか懐かしい衝動が起き、ささっと書きました。大人になると無くしている「何か」について。

 
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投稿者: : 2013年1月7日 投稿先 雑談

 

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