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インターステラー ネタバレ

本当に素晴らしい映画でした。ガチSFは素晴らしいです。

(以下、ネタバレの疑問点メモです。)

アンハサウェイが冷凍睡眠に入り、地球に信号を送るという今後の予想が多いのだが、それは間違っていると思う。アンは、プランBを実行に移すはずだ。つまりは、アンの手元にある大量の凍結精子と卵子を使い人類再生を試みる。が、母体が圧倒的に少ないので、計画は段階的に実行される。まずは、アン自身のお腹の中で、女性を10人作る。男子は堕胎しなければならないルールを作る。そしてその女性達はさらに女性30人を産む。この時点で女性は301人。ここからは男子を産んでもいいとルール変更し、凍結精子と使ってもいいし天然の男子の精子でも良くなる。初代アンは死去。人類は復活を遂げていく。でも食料問題が解決されないかも。

アンが一晩眠り、今後どうしようかと考えていると、老人のマシューが現れるのかしら?

ブラックホールの中では、光速視界なので、光が粒のように砕けていた。質量のあるものは、引き延ばされ押しつぶされて崩壊すると思っていたけど、違うのか?あとで、調べてみよう。

時間が同時に存在するという概念ではなく空間表現は映画ではなかなか難しい。主人公は「愛」があったから、あの部屋に帰ったと言っていたが、強烈な娘への執着がなければ、あの本棚にはたどり着けなかったのだろう。愛は境界線を越えなにかの意味が有るとアンは語るが、意外と正解なのかも。多元というものは決して現次元では認識されない。質量を持たない何かとは思考なのか?質量のない何かが同時に多元に現れるということ?それが神の啓示的な事象になるの??(←ほら神秘主義的になっちゃうW)私たち三次元の認識力では本棚の境界線を越える事も観る事も出来ない。が、映画は描いてしまう。だからこそ、荒唐無稽に感じてしまう。が、目では画面を見ても、心であのシーンは感じるべきだ。あそこは認識できない空間なのだし。

重力操作の数式が完成しないと、宇宙ステーション建設は無理だったの?その理由が少し分からない。重力操作できても、完全な農作物育成への手がかりにはならないのでは?もし農作物育成が可能なら、農作物だけを衛星軌道上で育成すれば、人類は地球で暮らしていけるのでは?

農作物の感染での食物生育の危機、砂嵐による気管支の病気、が主な原因として描かれているが、コロニーでも新規の星でも、植物問題が解決しないと同じなのでは??植物絶滅による酸素不足もコロニーでは解決してるの?どうも移住に対しての緊迫度に説得力が無い気がする。

ブラックホール突入後のマシューちゃんは、何故、土星の衛星軌道上に居たのか?

ブラックホールとワームホールの関係は現在未知数。なので土星の近所のワームホールから抜け出たと考えられる。が、ブラックホールに突入した時点で、爆発的に時間は経過するので、120年後の宇宙どころではないはずなのだが、なぜか突入前の時間軸に戻り、宇宙ステーションに救助されている。不思議。

娘はいったい何歳?父親の信号を受け取った時点プラス120年。冷凍睡眠に100歳くらいで入り、父親が帰還したら起こしてね、すぐ死んじゃうけど。みたいな感じ??

多元では時間は同時に存在するから、観察は出来るけど操作は出来ないという設定。だけど、50年前に土星の近所にワームホールを造っているのは、誰の仕業?未来の人類とかなら、そもそももっと違う部分を操作するでしょ?そう考えると、やはりマシューちゃんが作ったと考えるのが妥当ではないか?じゃいつ造ったの?となると、過去の宇宙船の中のアンと手をつないだように、やはり過去に現れ何かの事象を引き起こしてるの??

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投稿者: : 2014年11月24日 投稿先 雑談

 

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観客の範囲をどう扱うのか?

(ネタバレではないけど、「インターステラー」観賞後に読んでください。)観客は、その人生において、科学的な知識欲を育ててなかったら、この映画の科学的なシーンを荒唐無稽だと感じるだろう。そうなると人間ドラマにしか目が向かなくなり、まあ、それでも良かったという感想にはなると思うが、なんだかモッタイナイ。けれど、もともとが科学には興味がない人生なのだから何を言っても仕方がない。同じように、科学的な観点は、冷徹な哲学に通じる部分が有り、愛とは何かという問題的も本作では語るが、それを追求すると、神秘主義的な問答も起きてしまう。科学や数学や物理学を研究すると、やがて、とても恐ろしい「円」が見えてくる。理解不能なモノを冷徹に分析理解しようとしても、その「円」は、人知を超え、人間には神秘主義的境地をもたらしてしまう。あたかも神の領域と認識してしまい先に進めなくなる境界線だ。これも、やはり荒唐無稽と断じる人間を産み、そんな人生の人には、何を言っても仕方がない。「ようこそ、美の教室へ」にも真理を理解し、世界を支配しようとした物理学者が登場する。(生物学者に変更も考えてるけど、、)
さて、映画を作る時、これらの「何を言っても仕方のない人」をどう扱うのか?ここは、監督自身の領分なのだが、例えば、バカは放置するという立場もある。観客をバカと呼ぶなんてアカンという視点は、映画を娯楽ととらえればならではのモノ。批判をかわす為には、言い換えてみれば良いのか。監督は観客を信じている。とかなんとか。
最近だと、ライフオブパイを非常にすばらしいと思ったが、観客の批評は、それぞれの知性や知識からくるもので、それぞれが自分勝手で自己満足的で閉じている。「知識の海」の広がりもないし、ミクロ的な分析からマクロ的な宇宙を見いだすこともない。観客は、毎日の生活と喜びであふれ、「そんなコト」には興味を抱かない。また「何を言っても仕方のない人」が登場してしまう。
そうすると、万人向けという映画は存在しないのだということになる。
では、自分の作りたいモノを作るという振り切りは必要ではないだろうか?観客を信じるとかなんとか言っても、想定する観客枠は有限であるのだし。映画関係者的な観点は、商業アクションを軸にしているので当てにはならない。「インターステラー」を作りたいと言ってもなかなか動けない。映画は神聖かどうか微妙だが、映画関係者はまったくの俗物だと感じるのは、商業がもともと高見を目指さないアクションだからだ。それでも、商業の枠の中で、映画を作るというのは、なかなか大変だと感じる。チラシなどのデザインで真理を語り高見を目指すのと同じで、足かせは大きい。
などと、映画の作家性を商業的に利用する映画人の俗を少し考えさせられる「インターステラー」でした。観客もまた俗。俗と科学を融合する思想力はお見事だと思います。物語る力。

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投稿者: : 2014年11月24日 投稿先 雑談

 

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