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タグ別アーカイブ: キェシロフスキ

役者の演技、その演出について

よく「役者の演技を何故そぎ落とすのか?」が話題になることがある。監督が、役者と対峙するときに出て来る言葉である。

私なりに考えると、それは、その演技の解釈が少なすぎるからだ。監督たちは、逆を言ったり、疲れさせたり、即興をしたり、いろんな方法で、役者の演技をそぎ落とす。笑いに悲しみを、悲しみに怒りを、人間の感情は、多くの解釈があるはずなのだ。しかし、映像演技に慣れていない役者は、笑うシーンでは確実に笑うし、泣くシーンでは確実に泣こうとする。クローズアップされる役者の顔。その寸分の動きさえも、観客は凝視し、解釈しようとする。それに耐えうる演技とはどんなものなのか?

良い役者は、すでにその事を理解している。多くの感情を知っている。哲学を学び、心理学を探求し、レイヤー構造の感情を考える。一元的ではない感情について思索し、現場で捨てる。(これは監督にも言えること。予め想定した演出を捨てる技量が必要。)

映画のメイキングを見ると面白い役者の話が聞ける。「ドラゴンタゥーの女」では10パターンの演技を用意して現場に入るのは、用意してない11個目の演技を引き出したいからだと役者自身が語る。(素晴らしい考え方だと思う。)

「青の愛」のメイキングでは、監督の演出を、役者自身が拡大させている。最後の瞬間に泣きながら微笑むかどうかの話は必見だ。監督は微笑させたくなく、ビノシュは微笑んだ。結局、編集では微笑む方を採用したくだり。(ビノシュは心理学的な感情の反動を体現させる方法論を持っているということ。)

そういう役者との対決を私はしたい。映画は監督一人のものではない。役者や美術、衣装、音楽、すべての人々の想いが、多元的に絡み合い、でも最後はひとつのラストにたどり着くのだ。まるで、最初から、そうなる運命かのように。

現在、脚本を書き直している。主要な登場人物を丸ごと殺す。人生を奪うのである。最初から居なかったかのように、周りの登場人物も振舞う。なんと恐ろしい。死そのものである。脚本を書いている時に、まるで神様のように人間を操作する。しかし、ふと気づく。もしかしたら、私こそが、彼らに観察され操られているのではないかと錯覚さえする。彼らを盗聴し、船を転覆させるキェシロフスキ監督のように。

私の現場はどんな現場になるのだろうか?役者と映画の解釈について語り、お互いの生き方をさらけ出したい。

 
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投稿者: : 2012年10月10日 投稿先 役者

 

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「赤の愛」が何故、最後の作品なのか?

(ネタバレも有ります)

「トリコロール」をようやく三作品ちゃんと観ました。「青の愛」で止まっていたんです。映像美は凄いけど、死んだ夫には愛人がいたとか、死んだ夫の姑との関係がうまくいかないなど、オゾン監督の「まぼろし」でも観たし、フランス映画で多く取り上げられている話だったからです。もともとキェシロフスキ監督は大好きで、私自身の思想の練り上げ方にも似ていた部分があったので、残りの「白の愛」「赤の愛」は、観るのを少し寝かしといたんです。映画を観るのはタイミングが重要だと思っているからです。で、最近はウツ気味になり、思索するには丁度良くなりました。

「白の愛」は、デカローグの「ある愛に関する物語」の焼き直しに感じました。ラストなんか、そのまんまですもの。少し落胆しつつ、「赤の愛」を観ました。完全にやられました。神秘主義が復活していたし、何故、この映画を最後にすると言ったのかが、よく分かりました。

ここでトランティニャン(言いにくいので「トラちゃん」にします。)を目撃。なんと素晴らしい役者なんでしょう。と思っていたら、翌日観たブルーレイ「暗殺の森」の主役じゃありませんか。自分の中で、老人と若者の同じトラちゃんを連続で観て、さらに感慨深いものになりました。トラちゃんは、キェシロフスキ監督の体現でした。それは、ラストシーンから始まるのです。沈没したフェリーから脱出した数人の人々をテレビで観て、彼らの話を妄想するのです。それらが「青の愛」となり「白の愛」となります。「赤の愛」では、自分自身も登場します。老人は退役判事ですが、「赤の愛」では、司法試験に受かったばかりの若者が登場します。これは判事の若い頃とみるのが妥当です。判事は若い頃に恋人に裏切られたと告白するし、実際、この若者も恋人に裏切られます。判事は「夢のなかで、50歳の君と一緒にいた」と、主人公の女に告げますが、このあたりから、「赤の愛」を含めて、トリコロールという映画そのものが夢であり、夢のなかで観る夢が現実なのかもしれないという錯覚をもたらします。主人公の女性でさえも、もしかしたら夢のなかで判事に会っている?夢自体が未来の暗示?映画的な整合性がちゃんと説明されない箇所もありますが、その錯覚こそ、この映画の伝えたい部分であり、割れた窓から判事が外を見て何かを考えているのは、逆に私達が判事を見て何かを考えているのだという、見る見られるというか、思想が双方向になってくるゾクゾクする感覚を表出させる映画だと思いました。(今も、あの部屋から、現実の私達を観察している判事(監督自身のこと)が居るような気がします。監督はすぐに実際に亡くなり、あの部屋の住人になってるような気さえします。)

そういう思想の到達点に立ったからこそ、「もう映画を辞める」と言い出したのでしょう。映画は監督の思想を練り上げるものです。特にヨーロッパではそんな文化です。(残念ながら日本はそうなりませんでした。思想を練り上げる行為は「作家性」と呼ばれますが、日本ではやっかいなモノとして見られています。思想は娯楽には不要だと信じられ、業界人にその知識すら有りません。哲学文化が根付かないのです。)

追記:「赤の愛」では、3回、急にカメラがぐわーと動くシーンが有ります。とても神がかり的です。そのひとつに、判事が「美しい光線が…」と言い、2秒後に太陽に照らされた床が光ります。出来事の起こる前にセリフを言うのです。すごくこの作品をよく表しているシーンです。こんな神がかったシーンを作れるなんて素晴らしいと思います。自然に待っていてもなかなか訪れるものではありません。

追記:ハネケ監督といえば、観客の心をイライラさせる手法で、手玉に取る人で有名ですが、彼の最新作でもトラちゃんはいい演技をしているようですね。今年のカンヌは「老い」がテーマになっているような感じですが、巨匠たち自身が、老いてきましたので、そんな心境なのでしょう。トラちゃんがかなり萌え萌えです。(演技に色気がある人って素晴らしいと思います。こんな老人になっても。。)

↑たぶん、ボケた妻に語りかけているようなシーンかな。自作「眠る右手を」でも、映画の後半は、人間で居ることに悩み苦しんだ妻が、ある事件で白痴になる展開があります。主人公の夫(草野康太)は、聴こえていない妻に必死に語りかけます。何度も何度も。まるでそこに自分の存在を確認するかのように。しかし妻は応えません。それは「神の沈黙」を意味します。一方通行の祈りを捧げるしか無いのです。

それでも、人間は理解し合えるという(捨てられない浅はかな)希望を持っています。そして話しかけ続けるのです。沈黙が起きたからこそ、話すことを始めるのでしょう。理解し合いたいという気持ちが、ラストに持ち上がるのを観客にも感じて欲しかったのです。そのラストのために、映画自体は、駆け引きばかりを繰り返し、脱落する人々を描いているのです。

思想を練り上げるという映画文化を、日本からも誕生させたいですね。なんで、最近はこうなっちゃったんでしょう。。。

 
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投稿者: : 2012年6月25日 投稿先 雑談, 映画レビュー

 

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