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タグ別アーカイブ: 演出

オーディション開催考察

kodomo

少しずつだが、配役が埋まってきた。知り合いの役者さん、気になる役者さんとも個別に面談もしている。

そろそろ、オーディションに関して、進行しなきゃいけない時期に来ている。

1:オーディションする役柄を絞り込む。(ちと多すぎ)
  サトル 母親ルイ 愛人カズオ サルキチ校長
  祖母キヌ 患者タケオ 中年ババン 化身の少年

2:日程と会場選び。新宿か中野付近

3:ワークショップ形式で演出を数パターン試す。
  カメラ撮影もする。

4:配役決定か候補者なしか決め、再募集の有無を判断。

課題:大規模な募集をどう進めるか?(アイデア募集。現状は地味に掲示板カキコ。。。)
課題:1に関しては、気になる役者とは個別オーディションしていく。

kubi

クランクインは、この調子だと、やはり秋くらいだと思う。撮影期間は、まだ未定だが、主役は、秋から春までの期間必要。季節をどう盛り込むかでスケジューリングする必要があるが、まだそれは後回し。

エキストラは、現在、20名以上は登録済。あとはスケジュール次第であるので、もっと登録数を増やす必要がある。

サトルは主役の一人で、演技力と容姿が重要。軽はずみな気持ちでオーディションに望んでも、時間の浪費なので、決意を持って応募ください。特に、10代後半と20代後半を演じわけて欲しいのですが、20代後半のキャラは、過酷な人生を経ているので、中身は色々と達観しているので、別人格と捉えてください。年齢設定も40代前半に引き上げておいたほうが良いと思います。

配役された役者は、今年から来年春までは、人生を捧げてください。

furikaeru

 
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投稿者: : 2013年2月22日 投稿先 進行, 役者

 

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役者の演技、その演出について

よく「役者の演技を何故そぎ落とすのか?」が話題になることがある。監督が、役者と対峙するときに出て来る言葉である。

私なりに考えると、それは、その演技の解釈が少なすぎるからだ。監督たちは、逆を言ったり、疲れさせたり、即興をしたり、いろんな方法で、役者の演技をそぎ落とす。笑いに悲しみを、悲しみに怒りを、人間の感情は、多くの解釈があるはずなのだ。しかし、映像演技に慣れていない役者は、笑うシーンでは確実に笑うし、泣くシーンでは確実に泣こうとする。クローズアップされる役者の顔。その寸分の動きさえも、観客は凝視し、解釈しようとする。それに耐えうる演技とはどんなものなのか?

良い役者は、すでにその事を理解している。多くの感情を知っている。哲学を学び、心理学を探求し、レイヤー構造の感情を考える。一元的ではない感情について思索し、現場で捨てる。(これは監督にも言えること。予め想定した演出を捨てる技量が必要。)

映画のメイキングを見ると面白い役者の話が聞ける。「ドラゴンタゥーの女」では10パターンの演技を用意して現場に入るのは、用意してない11個目の演技を引き出したいからだと役者自身が語る。(素晴らしい考え方だと思う。)

「青の愛」のメイキングでは、監督の演出を、役者自身が拡大させている。最後の瞬間に泣きながら微笑むかどうかの話は必見だ。監督は微笑させたくなく、ビノシュは微笑んだ。結局、編集では微笑む方を採用したくだり。(ビノシュは心理学的な感情の反動を体現させる方法論を持っているということ。)

そういう役者との対決を私はしたい。映画は監督一人のものではない。役者や美術、衣装、音楽、すべての人々の想いが、多元的に絡み合い、でも最後はひとつのラストにたどり着くのだ。まるで、最初から、そうなる運命かのように。

現在、脚本を書き直している。主要な登場人物を丸ごと殺す。人生を奪うのである。最初から居なかったかのように、周りの登場人物も振舞う。なんと恐ろしい。死そのものである。脚本を書いている時に、まるで神様のように人間を操作する。しかし、ふと気づく。もしかしたら、私こそが、彼らに観察され操られているのではないかと錯覚さえする。彼らを盗聴し、船を転覆させるキェシロフスキ監督のように。

私の現場はどんな現場になるのだろうか?役者と映画の解釈について語り、お互いの生き方をさらけ出したい。

 
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投稿者: : 2012年10月10日 投稿先 役者

 

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カメラワーク考察

アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作品を初めて観たのは、「21g」だった。自作「SPICA」で求める演技について、主演の鈴木薫を劇場に連れていった。ナオミ・ワッツの演技を見せる為だったが、自分は、イニャリトゥ監督の思想性に強く惹かれた。「バベル」も好きだが、やはり一番は「BIUTIFUL」だと思う。国内では、ブルーレイ化されてないのが、すごく不満だけど。

手持ち撮影の印象が強いので、演出はしてなくて、その場での役者の行動を記録してる感じなのかなと思っていたら、かなり細かく演出しているみたいで、役者にかかる負担はすごく大きそうだった。何度も繰り返し、演出し、演技し、カメラワークを修正するんだろう。編集段階で、すべての映像素材をさらに吟味しつなげていく。

自分は、「眠る右手を」ではカメラを尊重した。役者をミリ単位で固定し、動きを制限した。草野康太からは不満が漏れた。自分自身が役者や人間を信じていなかったからで、話も寓話的すぎた。役者に自由に演技させるのは、「SPICA」の時のエチュードを目撃した時からだ。現場で起きる奇跡的な瞬間を見てしまうと、それをなんとか記録したいと思う。しかし、奇跡はなんども起きなかったと思う。ただ、役者を信じる心を持てるようになった。自分の中に、愛を見つけた。冷たい心しかなかった自分だったのに、映画を作ることで、ようやく人間になれたと思う。

今回の「教室」は、リアリティと寓話性の融合した話で、カメラワークは、どちらの意味も持たなければならない。手持ちカメラの醸しだすリアルな空気感だけではダメなのだ。時として、オペラシーンも介入するし、神話性を持つシーンもある。非常に難しい演出の舵取りをしなければならない。

そんな時に、やはり「BIUTIFUL」演出は参考になる。死者の魂を見るシーンや、思想の神話性はとても魅力的だ。ただ、「教室」は更に寓話性を強く打ち出す、どちらかというと舞台的なシーンもある。やっぱり難しいなと思う。映画なのに、たまに舞台だなんて、ミュージカル的で興ざめさせかねない。しかし、映画でなければならない。映像でしか表現できない、映画でしか表現できない、白川幸司でしか表現できない領域があるはずである。

絵コンテを描かねば。ロケハンして、更に絵コンテを詰めていく。まあ、既に脚本を書いてる時点で、かなりの映像化は終えているが、もっと熟考しなければ。

熟考といえば、もう手直しは要らないかなと思っていた「教室」脚本も少し修正して、また良くなった。なんだか、最初から「そうなる」んでしょ?みたいな感じで変更する。自分ではなく、映画の神様に筆を動かされている感覚。毎日、真摯に脚本に打ち込んでいると味わうことの出来る不思議な感覚がきているのだ。この高揚感が欲しかった。苦しんで書いている先にあるこの絶頂感。やっぱモノ作り中毒だね。

 
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投稿者: : 2012年5月9日 投稿先 進行

 

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